お城の地下室でドラゴンを退治してお姫様を奪還するのは編集ではない。

内田樹『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』(晶文社)読了。

a0091515_7215616.jpgなるほど考えると言うことは物語を作ることだ。
そして映画とは観客に物語を作らせることなんだ。
つまり観客に考えさせなきゃ映画ではない。
じゃあ考えさせるためにどうするか。
問題を描いて答えを描かなければいいのだ。
そうか。生徒たちにこう言おう。
映画で説明するな。完結するな。理解してもらおうとするな。観客に考えさせろ。いつまでも考えさせろ。
で、編集とは何だ。
物語の構造(文脈)を作るための仕掛けを作ることだ。脈絡のない二つの情報から解釈を導き出す仕掛けを作ること。組み合わせて(モンタージュ)考えさせるための仕掛けだ。その脈絡のなさ、言い換えれば断絶は幅があって深い方が観客は立ち止まって考える。幅とは連続する時間の長さであり、深さとは意味合いの連続の隔たりだ。時間がつながらないこと、意味がつながらないこと。時間がつながらないこととは動きがつながらないことでもある。
ショットAと次のショットBの間に亀裂(断絶)がある時に観客はその二つをどうにかして結びつけようとする。観客がそれまで思っても見なかったことが起ったのだ。観客はそれまでの考えの流れの中に収めたいのでいろいろと想像し仮定して新しい解釈・物語を作り直さなければならなくなる。これが観客に考えさせることだ。そこで新しい考えや感情が起こり観客は驚いたり感動したりするのだ。観客の想定外のことが起こった時でないとそれは起こり得ない。
極論すれば、編集とは脈絡のないものを並べることだ。
もっと単純に言えばAの後のショットはA'でもBでもないショットだ。例えば少女のショットと札束のショット。観客はその組み合わせを結びつけようと物語を作って行く。
説明するためのつなぎは編集ではないと言い放ってしまおう。
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結論。
映画と言うのは監督が物語を語るものではなく観客に物語を作らせるものである。
と言う意味合いにおいて全ての映画は常に現在進行形である。観客が生き続ける限り。


僕にとってこの本の読み処は最初の5分の1で終わってしまったが、後半に出て来た「パスをつなげる」と言う言葉はかなり示唆的で一度映画編集に置き換えて考えてみる必要がありそうだ。
ちょっとだけ編集とサッカーの類似点についてメモしておくと。
編集において次にどのショットとつなげるかを考える場合に重要なことは二つのショットの落差(断絶)を想定していかにパスを出すかと言うこと。最終的に映画のエンドマークに向かって、あるいはこのシークエンス全体のゴールに向かっていかにパスをつないで行くかと言う計算であり、イメージなのだ。そのためにある箇所では落差のないものを小刻みにつないだり(それこそサッカーのワンツー・パスのように)、意味的には同じでも意外な話相手にふったり(近距離で真後ろにヒール・パスしたり)、大きな落差を持ってつないだり(サイド・チェンジして観客の視点を変えさせたり)と攻撃の幅を広げて観客の想像力を刺激して彼らが作る物語の幅も広げるようにしなければならない。そのためにはスルーしたり、一度最終ラインへボールを戻しすことも必要だろうし、相手の股を抜くなどトリッキーなパスも必要になる。などなど。
結局はやはりサッカーと同じで広い視野を持つことが最も重要なことになる。

映画の秘密をめぐる冒険は未だ未だ続く。

※ 記憶すべき言葉
志は高く、腰は低く
何か原因が「あって」、物語が動き出すのではありません。何かがうまくゆかないとき、何かが「ない」ときにだけ、物語が語られ始めるのです。

by costellotone | 2011-10-18 07:49 | 読書 | Trackback | Comments(0)
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