穂村弘 『短歌の友人』 (河出文庫)
来期の編集のワークショップで学生に「短歌」を作らせてみようと考えているので読む。 今自分がドキュメンタリー映画を編集している中で先日砂田麻美監督『エンディングノート』を観て感じたことへの説明がこの本に示されていて、ひとつは著者が言う「言葉を軽く握る」と言う件。思うに映画も「軽く流した部分に観客は共鳴する」と言う側面がある。詰まる処タイトにするだけでなくある部分ルーズにしておく必要がある。観客が自分の中の何かとモンタージュするものを作品の中に発見する場合、多分に主題を言い募っているシークエンスではなく、「軽く流した部分」を観ている時だと思われる。リラックスしている状態で意識下に侵入する要素を外さないでおくと言うことは大切だろう。 もうひとつは映画が生き生きと存在するためには「破れ」と「歪」が大切だと言うこと。著者は「その破れによって一首に奇妙な生命感が加わっているようにみえる」と記しているが、「歪」も同じくそうだと思うのだ。これも観客は「あれっ」「妙な」と言う思いに囚われる時にこそ映画を振り返ろう、捉え直そうとする意識が働く。「破れた」ものに「歪な」ものに触ろうとするから映画は動くのだろう。その動いた部分に観客は作り手(人間)を見ることが出来るのだ。危険を承知で言えば、合目的的ではない「破れた」「歪な」「危うい」「ねじれた」(増えた)部分でこそ観客と作品は出会えるのだ。もう少し乱暴に言うと、欠陥にこそ映画はある。 だからね、『エンディングノート』はすぐそこに到着点が見えてしまう、きれいに舗装された一本道としか見えないのだ。一方通行行き止まりのね。 ついでにもうひとつ。この本に書かれている文章に重ね準えて「編集の確信」について。これは去年より学生たちの編集を見て思ったことのひとつに、編集に確信がないと言うこと。別に学生に限らず、アマチュアとか他のジャンルのひと、編集者でないひとの編集についてです。 「編集をする」前提に「覚悟」がある。それがないと編集が出来ないのが編集者です。多分学生や素人が編集をする時にはその前提がない。「覚悟」とは何か。誤解を恐れずに言えば「生のかけがいのなさ」を唯一の拠り所とする覚悟です。「生」の一回性と交換不可能性の意識化です。「映画とは基本的にひとつのものが形を変えているだけ」と言う認識がある場合の「ひとつものも」です。「映画にもいろいろなものがある」と漠然と思うのはその「ひとつのもの」の絶対性に対する把握の弱さです。 この覚悟ゆえに何回も直し何回も観ると言う作業に立ち向かえる。そこからしか確信は生まれない。 ただ監督が編集をする場合にこれがずれる。編集は「観客」に対して行うものなので編集中の作品の「監督」も観客(編集者以外の全て)となる。言わば「監督の不在」を背に編集する。だが監督が編集をする場合編集者はふたつに裂かれてしまうので編集不可能になってしまう。ただ解離性同一性障害の傾向のある監督は可能かも。 おまけ。映画とはメタ映画であって「映画とは何かを」を問うことである。ちゃんちゃん。 すみません全て受け売りです。どうもウォルター・マーチも入って来ちゃった。
by costellotone
| 2012-02-21 08:47
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