「ネズミコドウ、参上」と義賊然として女郎の前にピョンと飛び出す。

a0091515_10203866.jpg中上健次 『奇蹟』 (小学館文庫 中上健次選集7)

これは小説ではない。中上健次の肉声が語っているのだ。

 四人は路地という流れのゆるやかな生暖かい水底で卵を生みつけられて孵化しそこで育って泳ぎ廻り、たまに路地の外の淵や浅瀬に遊びに出る。光の加減によって四人の小魚は不思議な美しい色を発散する。夜叉鬼人でなくともオリュウノオバですら、小魚をすくい獲る網を持っているなら、路地の道に四人身を寄せあって歩いているのを一網打尽にして鉢にでも入れて飼っていたい。

 クエになったトモノオジは、たとえば身がいかようなものに変わろうと血は変わるわけではないと証すように背鰭を動かし、はるか上の水面からのぞき込むオリュウノオバに、タイチが殺されたと知ったいま、二人が味わうたとえようのない悲しみが、そもそも路地の三朋輩が、後年、タイチの敵となる浜五郎とカドタのマサルを機関銃で撃ち殺さなかった事に由来しても、トモノオジはトモノオジの一世を大事にし、朋輩との友愛を珠とも宝とも思って殉じるしかなかったのだとつぶやく。

 キミコは明るい外に立ったイクオが変わるのを見ていた。ヘヘのところへ行こうか、とイクオの信じられぬ声を耳にした時、兄のイクオは白っぽかった。裏の戸口の向こうに広がった畑の緑や柿の木の葉の光を受けて、イクオは透明な感じだった。キミコの眼に、イクオは信じられないほど美しかった。それがキミコの聞き間違いで、兄のイクオが言ったのは、妹の自分を家に連れて行き、死人を見せていたぶったヘヘの親の元へ怒鳴り込みに行こうという事だったと気づいて、白っぽい印象のイクオの姿が光を撥ねる。兄のイクオが光りながらそこに居て自分を救けてくれると思い、川で溺れかかってイクオの腕に取りすがった時のように、太い腕や厚い胸を持った屈強な若者だった事に気づいた。
 キミコは混乱し、声を上げて泣いた。

 お春の体から漏れる芋飴のような甘ったるい化粧の匂いに息を詰めながら、腐りでも溶けてでもしまえと袖をまくって腕を差し出し、イクオはお春の甲にまで白粉をはたいた皺くちゃの手でヒロポンを射ってもらい、体に液が入るや否や酔いが醒め、今まで積もりに積もっていた気鬱が昼日中の雪のように溶け出すのを知って、ヒロポンが体に毒と説くオリュウノオバの叱言は中本の血に生まれついた自分には当たらないと思い、液が一滴残らず血管に入り、お春が注射針を抜くや体が軽くなったと首を左右に振って音を立て、「やれよォ」と溜息をつく。
「気色ええがい? こんなええもん他にあろかよ」

 イクオはそう怒鳴ってみて、ふと哀しくなる。誰が悪いわけでもない。誰が裏切ったわけでもない。ただ時が過ぎただけ、人に男と女の別があり、人が人に恋し肌与えただけと思い、哀しみがイクオの胸の中から闇の中に溶け出しあたりに満ちていると思い、一歩すら歩けなくなり道にたたずむ。
 苦しくてたまらなかった。この苦しみから抜け出せるなら何をしてもよいとイクオは道にしゃがみ込んだ。

 生きながら生まれもつかぬクエともイルカとも見まがう身になってトモノオジは水底深く堕ち、潮の流れに巻かれてくるくる転がされ、こうしてはおれぬと胸鰭尾鰭を動かしてやっと身が落ち着くのを「やれョー」と溜息をつき、精神病院の裏庭で仰ぎ見る天の高みよりも百尋も千尋も高みにあるような水面を見つめ、オリュウノオバでもよい、居るのか居ないのかわからない何をしても仏様の事ばかり考えている、話してもこちらが鼻白むだけの礼如さんでもよい、誰か水面に顔を出し、水底をのぞいてくれないかと乞い願う。クエと言えばクエ、イルカと言えばイルカ、身がそう変わるのを罰として甘んじて受けるが、生まれもつかぬ身となって独りでいるのは耐えがたい。

 タイチの後に従いて清水に戻り、清水に塊となってよじれ渦巻き泳ぐのがまぎれもなく蛇なのを確かめ、蛇が他の生物とは一つも二つも違い賢いのを知っていたが、タイチとシンゴが五体に入れる薬を溶き、血のついた注射針を洗った清水にほんの一時の間に塊になって群れている事が仏の霊異のように思え、思わず手を合わせる。タイチがそのオリュウノオバに、「オバ、この蛇ら、オバに怒って出て来たんじゃわ」と言い、身をかがめて清水の中から塊をすくい、手の上で重心を取るように身をくねらす蛇をオリュウノオバに差し出す。

 幻覚の中でクエやイルカに転生して横たわり、地上に生きる者が海に生きる身になり、それが陸の上に横たわる二重三重の呼吸の苦しみに悶え草叢に転がっている間に、タイチの手下のまた手下にあたる路地の若衆が、或る日忽然と姿を消したタイチが悪い噂通りに簀巻きにされた姿で見つかったと伝えてくれたし、簀巻きにされ放り込まれたダムの底で魚に喰いちぎられ、本人と確認出来たのは両手の詰めた小指と身にくっついていた服だけだったという姿のタイチの葬儀が、路地の者らの手でわびしくつつましやかに行われたと教えてくれたが、幻覚の中でトモノオジは、死体になり骨となって人の手で葬られたタイチが、自分の呼吸の苦しさで洩れる呻き声と共に徐々に生き返る気がして、ハマボウフウの茎のちくちくと痛い棘に肌を刺されながらことさらのたうち、尾鰭背鰭を打ち振り、三輪崎の湾を見下ろす崖から続いた熊野の山々の彼方にまで届くように声を上げる。あまり力を込めすぎると腹の鱗がふくらんでこすれ筋がひきつれて痛むが、あびるほど飲み続けた酒のおかげでアル中となり、ここぞという時に後見人として助力のひとつも出来なかったトモノオジのする事はこれしかないと痛みをこらえて吠えるように声を上げ続けると、オリュウノオバがトモノオジの顔をのぞき込み、「吾背も食うたんじゃがい」と意外な事を切り出す。
「何をよ?」
「何を言うて、死んだタイチの肉をよ。水の中で魚らに一つ食い二つ食いされて、足も手も体も骨だけになったんじゃと、吠えて食うてしもた肉、吐き出そと思うてもあくもんか」
 トモノオジは首を振る。あっちへ行けと胸鰭を振る。その仕草がおかしいと笑うオリュウノオバの顔を見つめたまま、路地の三朋輩の片割れ、シャモのトモキ、たとえひもじさに震えよとわが子以上のタイチの肉を口に入れるはずがないとうそぶき、タイチの死体に群れた赤や黄色の小魚の非情ぶりに憎しみがつのり、七生の後に必ずや報復すると誓い、呻き声を上げるのだった。

 そのタイチの声を聴きつけたのか、広い掌の上に夏芙蓉の木に群れる金色の小鳥の群れが現れあたりを飛びかいはじめ、騒々しい声で「そんな事あるものか」と疑うトモノオジの言葉がかき消える。


by costellotone | 2012-03-17 10:23 | 読書 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://costello.exblog.jp/tb/14875750
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
<< In a Sentimenta... 瞳の中の訪問者 >>