なあんだ、そこにいたのか、とでもいうような……。

a0091515_739161.jpg大泉康雄 『あさま山荘銃撃戦の深層』 (上・下) (講談社文庫)

これまでに読んだ当事者たちの手記、ルポ、小説など書かれたものの中で一番興味深かった。
小学生からの同級生で今も交友がある著者に逮捕後究極的なひとつの質問「僕って何?」が発せられる。妻を守れなかったどころかその死に加担した「僕って何?」 お腹の中の自分たちの胎児を取り出して妻を処刑しようとした「僕って何?」
それに答える作業だ。

暗く狭い部屋に閉じ籠ってみんなで言葉に、特に熟語にそれぞれの欲や弱さの垢のようなものを塗りたくって無理やり固めてしまい、例えばその漢字そのもの、「自己批判」「造反有理」だとか「総括」「糾弾」「解体」「粛清」「殲滅」だとかにがんじがらめに拘束され緊縛され口にした自分たちの首を絞め殺し合った。そんな言葉の力にやられてしまった。主張した途端片っ端から正当化されて行く。攻撃は外へ向かって撥ね返えされ内側へ向かう。敵対する組織へ、同じ組織内の仲間へ、彼らの肉体へ、自らの肉体を「自己否定」する。

「ねえ、ヤス君、わたしたちのしてること、どう思う? ばかげていることではないかしら……」

いつの間にか信じることが出来るのは言葉しかなくなった。それも自分たちだけが信じたとても限られた言葉。常に口にしている言葉たち。それを口にするしかない言葉たち。自分たちだけの愛おしい言葉たち。うれしそうにその言葉たちは踊っている。言葉は楽しくてたまらないかのように反撃に出る。だってこいつら信じているんだもん。言葉は人間を苦しめる。目隠しした。混乱させ、殺し始める。共食いさせる。神様が人間に言葉を与えたとしたら、それは神様の思い通りだったのかも知れない。神様が笑ってる。

最高裁裁判長の判決文も当然言葉で表されており、そこにはやはり限られた独特の、反面解りやすくしようと陳腐な言葉が並び、事件の本質をぼやけさせている。同じことは被告人たちが犠牲者や遺族に宛てた謝罪文にも見て取れる。当然今書いているこの文章も同じだろう。言葉が何かを決定的にしてしまう。仕方ないのか。

by costellotone | 2012-03-29 08:12 | 読書 | Trackback | Comments(0)
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