世界は生きている

a0091515_23222277.jpgル・クレジオ 『調書』 (新潮社)

高校生の頃に読んでいたのは流行の大江健三郎であり安部公房であって他にも三島や谷崎。野坂や筒井も好きで古井由吉や小川国夫にもはまったし澁澤龍彦も島尾敏雄、石川淳。それらの作品は難解とは思わなかったがフランスのシュールリアリズムやアンチ・ロマンの作品はやはり手こずった。ブルトン、バタイユ、バシュラール、ロートレアモン、マンディアルグ、デュラス。中でもクレジオはこのデビュー作から『発熱』『大洪水』『物質的恍惚』と読んだが強烈な読書体験だった。日本の片田舎の高校生の想像力では到底捉え処がなく軟体動物のように輪郭が曖昧な塊として(と言って全部がぷよぷよではなく所々に溶岩のカケラのようなものが混じっている)やっとのことで飲み下すと言う感じだった。しかし読書とか(映画とか絵画とか)は不思議なもので理解出来ない巨大なものはカタルシスがあり何時までも頭の隅に残っている。
その後読んだのは『海を見たことがなかった少年 モンドほか子供たちの物語』だけだった。
40年ぶりぐらいで読み返すとこんなにも読みやすい文章であったのか驚く。(訳者は同じである)多分南米文学を読んだことが影響しているのかも知れない。あの魑魅魍魎・曖昧蒙古なマジックリアリズムを潜り抜けたせいだ。
デパートでの犬の交尾、白ネズミを殺すこと、打ち上げられた溺死体。南仏の青年の呼吸。
ところがである。174ページから急に読み辛くなる。「N」から具体的なものが何も見えなくなり言葉はばらばらと解けて頭の中を勝手気ままに浮遊してしまう。こんなはずではなかったのに。やはり読みやすくはなかった。そんな甘いものではない。理解が出来ない。こうでなくてはならない。だからこそのクレジオだったのだ。

気が違ってゆくありさまの描写。
彼は、自分がすでに現実の外へ足を踏み外していることを感じていた。
僕には体系が必要なんだ、さもなきゃ僕は気違いになる。
今こそは大地を地蟻に委ねるべきときだ。今こそは逆しまに逃避し、過ぎし時の諸段階をさかのぼるべきときだ。幼年時代の夕な夕なの昏迷の中に、まるで鳥もちに捕えられるように捕えられてしまうのだ。そして、何か食事したあと、柊に飾られた、まだポタージュの残りが浮いている異様に空虚な皿を前にして、霧のただ中に溺れるのだ。次いで揺籃の時代が来るだろう。そして産衣に窒息し、われとわがちっぽけさに対する激怒で咽喉をつまらせて死ぬのだ。だがそんなものはまだつまらない。というのも、さらに遠くへ行かねばならず、血と膿とを横切って母親の腹の中にまで後退せねばならぬからだ、そしてその腹の中で、腕と脚とを卵の姿勢にして、頭をゴムのような膜にくっ付け、地上の異様な悪夢に充たされた眠りを眠るのだ。

P.S. クレジオはニースの生まれだがやはり南仏海岸の街マルセイユの近くにマルティ―グと言う地域がありRadio MaritimaはそこのFM局。ネットで聴けます。ここは別名『プロヴァンスのヴェネツィア』と呼ばれている。
夕方岸辺を散歩してみませんか。
by costellotone | 2012-06-25 23:28 | 読書 | Trackback | Comments(0)
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