とうとうアジェンデ『精霊たちの家』を読み始めてしまった。
一晩で1/4読み進めたがめくるめくマジックリアリズムと言うより物語性が強烈で愉しい。 ![]() 何よりもこの全集に手を出してしまったことが怖い。 でも久しぶりにクレジオも読みたいし。 並行して吉田修一と穂村弘の文庫本も読み始める。
051
東陽一監督 『もう頬づえはつかない』 1979 ATG桃井かおり 奥田英二 森本レオ 伊丹十三 加茂さくら 初めて観たのだが懐かしい「時代の気分」しか思うことが出来ない。同じ年にやはりATGで作られたクロード・ガニオン監督『Keiko』の方が時代を越えた女性が描かれていると思う。でもそれはそれでどちらも好きなのだが。 ほろ苦い甘さと恥ずかしさ。撮影場所にもいろいろな思い出が浮かぶ。 奥田と暮らす桃井の部屋へ森本レオが来るシーンにとても小さく音楽が流されているがあれは当然狙いなんだろうな。非常に気になる音量。 最後伊丹十三と寝るとばかり思っていた。 サン=テグジュペリ 『人間の土地』 (新潮文庫)(高校生の頃から3冊同時進行で読書するのが決まりで、これはデイパックに入れていた奴) 勇気だ、力だ、誰にも負けないその意気だ。 もしかしてみんなが絶賛する映画をつまらないと言う勇気はこの本から来ているのかも。 この本を読むのは3度目だ。再読した本は10冊以上あれど3回目は開高健『もっと遠く!』『もっと広く!』だけだった。 「正義はどちらかにあるのではない」 昔読んだ文庫は物置の何処かへ隠れたままだったので新たに購入したら解説を宮崎駿が書いていた。彼の描いた地図に空に散った何十万と言う命と、飛行機から落とされた爆弾、機銃掃射で殺されたその何百倍と言う命を見る。空を自由に飛びたいな、とドラえもんのようなことを思いながら。 「精神の風が、粘土の上に吹いてこそ、はじめて人間は創られる」
50
ジョン・カサヴェテス監督 『こわれゆく女』 1974 米ジーナ・ローランズ ピーター・フォーク マシュー・カッセル マシュー・ラボルトー 観ながら増村保造監督のことを想い出す。特に仕事仲間を呼んで大勢で食事をするシーン。 二十歳の頃に増村監督の作品(『セックス・チェック 第二の性』『遊び』『音楽』)を観て不思議に思ったのが編集を意識した最初だった。 表情をつながないと観客は不安になると言うことに気づいたのだ。動き始めた処でカットし、次のカットは止まっているとイライラすることも解った。止まっているカット同士をつなぐと疑問を抱くのは何故か。最も顕著なのがダイアローグつなぎでのずり上げ下げ。その操作によって肯定的な気持ちにも否定的な気持ちにも引っ張って行ける。センチメンタルにしたり懐疑的にしたり投げやりにしたり。他にも編集を意識して観ているといろいろなことが解る。こうやって観客の情感や気分をコントロールしているのだと言うことが。もちろん演出に深く左右され絡み合っているし、カメラ・アングルにもそうだ。役者に繰り返しさせる細かい癖の演出。音はもちろんでセリフや効果音をちょっと高音にしても神経は波立つ。音楽とセリフがかぶっても同じだ。画面の質感や光の反射なども。 これは「見える編集」(大きな関係)に対する「見えない編集」(小さな関係)と言うことが出来る。これを言葉で説明するのが今年のテーマだ。
049
阪本順治監督 『大鹿村騒動記』 2011 東映原田芳雄 大楠道代 岸部一徳 冨浦智嗣 石橋蓮司 でんでん 三國連太郎 ワァー!と叫びたくなるほどつまらない。 脚本も演出も撮影も編集も音楽も下手くそ。何で大楠道代なの。 でも映画雑誌や映画祭でベストワンだって。 と言うことは僕が変なんだろう。 そんな人間が大学で「映画とは」「編集とは」なんて言ってていいのだろうか。 ドノソ 『夜のみだらな鳥』 (集英社「ラテンアメリカの文学」)やっとのこと読み終わった。と言っても半年ほど中座し大半はこの3日間で読んだ。 (読書がやたらと進む時期ってあるでしょう。読んでるそばから情景が浮かんでがしがし進めるような。そんな時なんだ今は。特にラテン文学は誰が誰と何について何時喋っているか不明瞭だが(私が誰だか解らなくなる)、それが愉しいから今は余計に愉しい) 腐った花が咲き乱れる中にあって、一番悍ましかったのは、屋敷に棲むせむし、かたわ、大女、白子、大頭などあらゆる畸形・侏儒・不具らからの輸血の描写。それらの血が入り混じって身体にゆっくりと注入され行く快感。 先日観た『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』のルイス・ブニュエルが映画化を熱望したそうだけれど、ホント誰か映画にしてくれないかな。トッド・ブラウニング監督『フリークス』のように倫理的観点からとか言う規制がかかるかも知れないが、でも寺山修司だってねぇ。 P.S. 悍ましいと言うか忌わしいと言うかそう言う嫌なイメージをひとつ、忘れそうなので(忘れられればいいのに)書いておく。 これは実際に何かの映像で見たのか、文章として読んだのか、はたまた夢なのか、それとも僕の無意識が何時の間にか作り出したものなのかも解らないのだが。 豚とか犬とかの胎児のような生まれたてのピンク色の生きものが5,6匹もぞもぞと蠢いている。まわりにはねばねばとした何か解らないものが散らばっている。大きさはよく解らないがとても小さいことだけは確かのようだ。もしかしたら1㎝ほどかも知れない。みんな短い手足を震えるように動かし頭を捻ったり身体の向きを変えたりしている。どうも目が見えてないようだ。そのうちにそれらが性交を始める。その行為は一瞬で終わりすぐに相手を変えて同じことをする。牡と牝の区別がない。しばらくすると動きが鈍くなり眠ったようだ。見ているとそれぞれのお腹が膨らんで来て身体が痙攣してぼろりと赤ん坊が出て来る。双子や三つ子や四つ子などなど。生まれたての赤ん坊と生んだ親である生きものは見た目も大きさもあまり変わらない。出て来た赤ん坊は動かない親たちを食べ始め、食い散らかした後でまた性交を始める。赤ん坊が生まれる。それが永遠に繰り返され増殖されて行く。 つまり赤ん坊が赤ん坊を生み続けると言うイメージに嫌悪するのだが、これは何かの小説にあったのだろうか。誰か同じような文章、または映像を知っていますか。 ま、どっちにしろメタファーなんだけどね。何かのね。 連鎖だけど。 そう言えば昔殺した妊婦のお腹から胎児を出して替りに電話機を入れたと言う事件があったっけ。 関係ないけど、福島の巨大な瓦礫の山の中で暮らす闇の子供たちの話を誰か書かないかなあ。何処からか拾われて来たのか降って湧いたのか解らない畸形児たちと婆さんらの話をそそり立つ原発をバックに。野坂昭如と開高健と中上健次と筒井康隆を足したようなド太いエネルギッシュな奴。小松左京の『日本アパッチ族』のような何もかも食い尽くすような。 最後に巻頭のエピグラムを写す。 「分別のつく十代に達した者ならば誰でも疑い始めるものだ。人生は道化芝居でもないし、お上品な喜劇でもない。それどころか人生は、それを生きる者が根を下ろしている本質的な空虚という、いと深い悲劇の地の底で花を開き、実を結ぶものではないかと。精神生活の可能なすべての人間が生まれながらに受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ。」 その子息ヘンリーとウイリアムに宛てた父ヘンリー・ジェイムズの書簡より。 < 前のページ次のページ >
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