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Never Letting Go

先月26日に亡くなったフィービー・スノウの想い出のレコード。
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このジャケは吉祥寺「ボニー&クライド」の壁にかかっていた覚えがあります。
by costellotone | 2011-05-02 08:01 | 日記 | Trackback | Comments(0)

移り気な性質よと答えたら

こんなんmp3にして再び聴くことはあるのだろうか。
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もうこの作業やめようかな。
by costellotone | 2009-06-04 09:42 | 日記 | Trackback | Comments(0)

Oh!RADIO

2ヶ月ほど前から落語のレコードをパソコンにコピーしていたのだがそれも終り、最近は高校生の頃に聴いていたレコードをコピーしている。
保存状態も悪くキズだらけで針が飛んだりパチパチ言っているものもあるがそれはそれで懐かしい。
一番ひどかったのは「はっぴいえんど」が演奏をしている岡林信康の『見るまえに跳べ』だ。正に擦り切れるほどよく聴いた。今よりも音楽に対する飢餓感があったからひとつひとつの音や言葉を理解しようと言う集中力がすごかったと思う。
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レコード・プレーヤーをつないだステレオ(ミニ・コンボ)のアウト・プットからパソコンのイン・プットにコードをつなぎ「audiograbber」と言うソフトで直接mp3として録音する。このソフトはデフォルトではビット・レートが低いから「lame」エンコーダーを入れて320kbpsに上げる。(と言ってもしょぼいアンプだからあまり意味はないが)
録音したmp3ファイルを「mp3DirectCut」で曲ごとに分割したり前後をカットしたりする。
一応最適な音量にそろえるために「MP3GainGUI」でノーマライズする。
最後に「SuperTagEditor」でタグ情報を整理しておしまい。
これら4つのソフトは全てフリー。
ラジオを録音する場合も同じ。ケーブル・テレビからアンテナ・コードを引っ張っているのでノイズが入らない。
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こんなことをしているからDVDも観れないし睡眠時間も短くなるのだ。
by costellotone | 2009-06-01 11:35 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

しゃべれどもしゃべれども

またやっかいなことを始めてしまった。
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物置にしまってあった落語のレコードを出して来てパソコンにコピーを始めた。
今では聴けなくなってしまった音源もあるので何時かはやらなければと思っていたのだが。
アナログだから当然リアル・タイムかかるし100枚ぐらいあるので面倒。
しか久しぶりに聴く志ん朝さんの『佃祭』はいい。
池袋演芸場で聴いた『二番煎じ』が懐かしいなぁ
by costellotone | 2009-03-24 09:53 | 日記 | Trackback | Comments(0)

レコード棚から-30

ザ・タイガース - 世界はボクらを待っている (1968)

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 1960年代後半に起こった「グループ・サウンズ」ブームの中で人気№.1だった「ザ・タイガース」の映画第1作のサントラ盤。この映画は和田嘉訓監督で1968年に東宝で封切られました。僕は中学3年生で、地方の街のとても小さな映画館で観ました。
 「グループ・サウンズ」ブームは1966年のビートルズ来日公演が契機となっていると言われていますが、第2次大戦後から「朝鮮戦争」を経た進駐軍キャンプやFENなどのラジオ放送によるジャズやポピュラー音楽の日本への浸透、エルヴィス・プレスリーの映画と挿入歌のヒット、ベンチャーズによるエレキ・ブーム、ピート・シーガー、PPMなどのアメリカからの反戦フォーク・ブームなどが相まって出来上がって来ました。つまりは街に多くの映画館が出来、各家庭にはラジオとテレビが普及した時期でした。社会的なくくりで見れば、日本が戦後復興を成し遂げた後の高度成長期に突入した時期で、その頂点が1964年の「東海道新幹線」開通と「東京オリンピック」開催でした。つまりは経済的、物質的な困窮から脱し、次は文化的、精神的な困窮からの脱出を図ろうとする段階で、「安保」や「ベトナム戦争」等の政治的な問題は山ほどあったにも関わらず、国民大衆はひたすら娯楽を求めていた時代でした。音楽だけではなく「プロ野球」や「プロレス」なども発展・繁栄し、各家庭も自家用車を手に入れ、カラー・テレビが大量生産されました。
 全ての社会的な現象はとても多くの要素が重なり混ざり合って出来ていますが、潜んでいるのは、終末へグルグルと向って行く「時代の欲望」です。「グループ・サウンズ」のブームも10年程で終焉を迎えますが、その後「第1次バンド・ブーム」(1970年代後半、サザン)と「第2次バンド・ブーム」(1980年代後半、イカ天)が来ます。このふたつの間には「安定成長期」から「バブル景気」の時期ががサンドイッチされています。
 数多く出たグループ・サウンズの中でトップ・グループにいたのが「ザ・タイガース」、「ザ・テンプターズ」、「ザ・スパイダース」、「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」の4グループで、その後を「ザ・ワイルドワンズ」、「ヴィレッジシンガーズ」、「オックス」、「ザ・カーナビーツ」、「パープルシャドウズ」が追い、ちょっと離れた処に「ザ・ゴールデン・カップス」と「ザ・ジャガーズ」などがいました。他にもカレッジ・ポップス、湘南サウンド、ブルース・ロック、サイケデリックなどからお笑い系までいろいろなグループが、よく言えば百花繚乱、もしくは雨後の筍のごとく現れました。
 さてこのレコードは一応サウンド・トラックと銘打っていて、各楽曲の途中には映画のシーンの台詞などが挿入されてはいるものの、どうも実際映画で使用された音源ではなく、台詞も付け足されたものもあり、継ぎはぎだらけのサントラらしいです。けれでも当時中学生の僕はそんなことを知る由もなく、妙に感動して聴いていました。
 えーと、肝心の映画の内容なのですが、単純に言えばSFファンタジーとアイドル映画をくっつけたようなものなのですが、実際はあまりに稚拙で雑な作品でした。2つを足して5で割ってしまったような。空を描いた絵の前で、糸でぶら下げた円盤を回し、「ヒュルルルル」と効果音を入れたような・・・。ストーリーもとってつけたようなお粗末なものでした。(本当のところはあまり覚えていないのです。)まあ、トップ・アイドル・グループでしたから撮影のスケジュールもなかったのでしょう。
 この映画よりも同時期にテレビで流された明治チョコレートのCMの方が記憶に強く残っている。並木道を黒マント姿のタイガースがやって来て、パラソルを差したお嬢様(?)にチョコレートを手渡し去って行く。バックにはタイガースが歌う「落葉の物語」が流れている。映画のお粗末が強烈だったから、このCMだけの方がイメージがよかったのではないかとさえ思ってしまいます。
 「グループ・サウンズ」の映画は他にも『ザ・スパイダースの大進撃 』、『ザ・テンプターズ 涙のあとに微笑みを』などありましたが、どれもやはりスケジュールの関係なのか、いい加減な作品が多かったようです。けれども『 進め!ジャガーズ 敵前上陸 』(1968年松竹・前田陽一監督・中原弓彦脚本)と『落葉とくちづけ』(1969年松竹・斎藤耕一監督 )の2本はちょっとだけおもしろかった覚えがあります。

P.S.1 実は僕の娘が高校生になって軽音部に入り、エレキ・ギターを買って練習し始めた。と言うことはゆくゆくはバンドを組むつもりなのだろう。と思いつつ音楽番組を観ればバンドだらけではないか。もしかしたら今は何回目かのバンド・ブームの真っ只中なのかも知れない。
 ガールズ・バンドに限って見れば、「プリプリ」も「ZONE」も解散してしまったが、今では「チャットモンチー」と「中ノ森BAND」、「オレスカバンド」が有名で、今時の女子高校生の目標になっているようだ。。ところでギャルバンのはしりは誰だったのだろう。「グループ・サウンズ」の頃には「ピンキーとキラーズ」がいたし、その後は「シーナ&ロケッツ」、「カルメン・マキ&OZ」もいたが、女性はヴォーカルだけだった。メンバー全員が女性だったのは「SHO-YA」と「ZELDA」だったが。
P.S.2 今年の沢田研二のコンサート・ツアーのタイトルは「生きていたらシアワセ」です。その通り!
by costellotone | 2007-06-25 13:35 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

レコード棚から-29

Crosby,Stills,Nash & Young - 4 Way Street (1971)
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 ストーンズ「スティル・ライフ」、ディラン「アット・武道館」、ディープ・パープル「ライブ・イン・ジャパン」、ツェッペリン「永遠の詩」、トーキング・ヘッズ「ストップ・メイキング・センス」、ザ・バンド「ラスト・ワルツ」、「ウッド・ストック」など山のようにあるロックのライブ・アルバムの中で1番の輝きを放っているのがこのC.S.N.&Y.の「フォー・ウェイ・ストリート」だ。今挙げたアルバムの中では確実に1番地味だろう。ハード・ロックのような爆音とステージ・アクションは全くないし、派手なスーパー・スターがいる訳でもない。LP1枚目のアコースティック・サイドではほとんどみんな座って演奏しているみたいだ。(ナッシュだけが立って歌っているのか?)特に映画として発表された「スティル・ライフ」に比べれば野に咲く名も知れぬ雑草のようなライブです。。
 けれども僕にとってはこれが1番のライブ・アルバムであるのは、ひとえにオープニングにある。LPに針を下ろした途端、1曲目の「組曲:青い眼のジュディ」のエンディングの「トゥルルルル」のコーラスが聴こえて来て終わってしまうのだ。観客の拍手の中、ニール・ヤングを紹介して彼の「オン・ザ・ウェイ・ホーム」が始って行く。この構成だけで勝ったも同然だったのだ。
 バッファロー・スプリングフィールドからスティーヴン・スティルス、バーズからデヴィッド・クロスビー、ホリーズからグラハム・ナッシュの3人が結成したスーパー・グループで、デビュー・アルバムが『クロスビー・スティルス・アンド・ナッシュ』。ここでのアコースティックなサウンドと美しいハーモニーにロックの力強いグルーヴを加えようと呼んだのが、スティルスと同じバンドでしのぎを削っていたニール・ヤングだった。そして4人でレコーディングしたのが『デジャ・ヴ』でした。このアルバムの中からは映画『小さな恋のメロディ』のテーマ曲になった『ティーチ・ユア・チルドレン』と、映画『ウッド・ストック』のテーマ曲になった同名曲、スティルスの「キャリー・オン」、ヤングの「ヘルプレス」などがヒットしました。
 バンドはスティルスの過剰なリーダー・シップのために数年で解散するのですが、その直前に起きたオハイオの大学での州兵の学生射殺事件への抗議を歌ったヤングの「オハイオ」を世に出すためにツアーを再開。その時期のコンサートを録音したのがこのアルバムです。「オハイオ」の他にも印象的なピアノで始まるナッシュの「シカゴ」、スティルス「自由の値」など政治色の強い歌が多いのも1970年の世界情勢とアメリカの政治状況が現れている。
 LP1枚目がアコースティック・サイドで、ナッシュの「ライト・ビトゥウィーン・ジ・アイズ」では初っ端のコーラスが合わず、(クロスビーが曲順を間違えた?)観客にも笑われてやり直すと言うような和やかな雰囲気もうかがわれる。次のヤングの名曲「カウガール・イン・ザ・サンド」はヤング自身のコンサートよりも演奏時間が短く、その分凝縮されて染み込んで聴こえて来る。ヤングがスティルスを紹介して(!)、ピアノの弾き語りで歌われる「49のバイパス/アメリカズ・チルドレン」も秀逸の出来。1枚目の最後はみんなでスティルスの「愛への賛歌」。「Love The One You're With」と書いた方が僕と同じ世代の人間には解りやすい。それ程に当時のアコギ小僧たちは憧れを持ってコピーした曲で、バンドを組んでいる連中はみんなハーモニーの練習をしていた。
 2枚目がエレクトリック・サイド。ナッシュの「プリ・ロード・ダウン」、クロスビーの「ロング・タイム・ゴーン」と続き、次第に熱がこもって空気が張り詰めて来るのが伝わって来る。ヤングの大作(14分近くある)「サザン・マン」に入ると、ヤングとスティルスのギターがまるで言い争っているかのようにがっぷりとぶつかり合って発火している。と言ってもちゃんとハーモニーを聴かせるところがこのバンドの底力で、白熱したギター・バトルの一触即発の頂点でコーラスが入りエンディングへ向う。問題作「オハイオ」での力強い演奏とクロスビーの叫び声が聴衆を圧倒する。「鉛の兵隊とニクソンがやって来た!」
 スティルスの「キャリー・オン」でも対ヤングとのギター・バトルの緊張関係は続きます。
 最後の「自由の値」はアコースティックからアカペラへ。最後の一言「Good Night」でカット・アウト。後は静寂。残る光芒。

 このアルバムは後にCDとして発売された時にボーナス・トラックとして4曲が追加されたので僕も買ってしまった。買わなくてもよかった。余分なのだ、この4曲が。今更何を言っているのだと言われそうだが、レコードで円は閉じられていたのだ。結晶だったのだ。
 あの1970年と言う時代に生きていて、このレコードを聴いていて本当によかったと実感している。大げさに言えば、誰にでもそう言う音楽があると思うけど、僕をとりまく世界の時間の流れと自分の内的な時間の流れが一瞬うまく交差出来た。輝くそれを今も示している(文字通りの)ライブ・アルバム。20歳直前だった。

P.S. 映画『ウッドストック』ではC.S.&N.が歌う「組曲:青い眼のジュディ」の映像はあるが、ニール・ヤングの参加した4人での演奏の映像は入ってない。後年発売されたディレクターズ・カット版にも映っていない。けれどもサントラには4人で歌う「狂気の海」と「木の舟」が収録されているし、1994年に出た25周年記念版のCDには加えて「グヴィニヴィア」、「 マラケッシュ急行」、「 4+20」、「 自由の値」を聴くことが出来る。
by costellotone | 2007-05-30 12:58 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

レコード棚から-28

CARMEN MAKI & OZ- LIVE (1978)

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 何時かのブラウン管の中、「紅白歌合戦」に出て暗い歌を歌っていた長い髪の少女がシャウトしたのを見た。それもジャニス・ジョプリンを彷彿とさせるきれいに伸びるバイブレーションのかかった声で。
 カルメン・マキは渋谷にあった劇団「天井桟敷」の女優で、1969年にヒットした「時には母のない子のように」などは劇作家・詩人・俳人・歌人・監督・競馬評論家である寺山修司が作詞をしていて、「山羊にひかれて」や「戦争は知らない」なども有名な歌手。当時僕が1番好きだったのは「東京はみなしご」と言う歌。「東京は私生児 ひとりぼっちの名前 みなしごたちが舟を浮かべた アルミニュームの湖 」と言う歌詞だったのを憶えている。
 で、この暗い歌の世界は以後、浅川マキ、りりィ、日吉ミミ、森田童子、と受け継がれ、中島みゆき(と研ナオコ)に流れ、(演歌ではない)昭和歌謡曲史のダーク・サイドを形成し、今もある。
 ロックに転向してギターの春日博文等と結成した「OZ」のデビュー・アルバムが出たのが1975年。この1st.を聴いた時、やっと日本語のロックが誕生したと思った。それ以前に「はっぴいえんど」が日本語ロック論争を内田裕也としていたが、「ロックとはツェッペリンである」と頑なに信じていたから、はたして「ゆでめん」はロックなのか僕には疑問だったのだ。しかし「OZ」は完璧にロックだったし、ロックであることを譲らなかった。あくまで硬くて重いリズムが刻まれ、低音が唸り響き、ビートの宙をこれ見よがしにディストーションするギターが舞い、聴いている身体と頭が上下に揺れた。それこそがロックの王道と言うものだ。
 描かれる詞の世界もドラマチックな作りで、作詞は殆どが加治木剛。この名前のイメージ通り、厳密に選ばれた言葉だけを並べ、ディープかつハイ・テンションな、しかし時に切ない世界を構築していた。この作詞家、後にダディ竹千代様だったと解って余計素敵に思えた。そう、オールナイト・ニッポンのDJの。そう、おとぼけキャッツです。東京おとぼけCATSの。
 1曲がとてつもなく長いのも、ロックを重く、かつ劇的なものにイメージ付けている特徴でした。ライブでは10分以上の曲が次々と続きました。
 3枚のアルバムを出して「OZ」は解散するのですが、このライブ・アルバムは、ジミヘンばりの「君が代」から始まり、1st.から「午前1時のスケッチ」、「六月の詩 」、「Image Song 」、「私は風 」、2nd.から 「崩壊の前日」、「 閉ざされた町 」、3rd.から「とりあえずロックンロール」、「26の時」、「空へ」と言う、極めてベスト・アルバム的な選曲です。ラスト・チューンはやはり「私は風」。途中、聴衆に歌わせておいて、「シビアー」と言う彼女の声がとてもかわいかったです。
 オリジナル・アルバムには収録されていなかった、大好きだった「嘆きのチャールストン」のライブ・ヴァージョンも聴きたかったし、「南海航路」も「昔」も聴きたかったのですが。
 今は、マキOZは永遠です、と言うだけです。
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P.S.1 ちなみに「私は風」は、「にっかつロマンポルノ」の小沼勝監督『OL官能日記・あァ!私の中で』のラスト・シーンに延々と流されています。出来ればこの曲が流れる、大傑作『性と愛のコリーダ』を観てみたかった。(実はその企てもあったらしいのですが。)
P.S.2 カルメン・マキが後日「ヴァニラ・ファッジ」のドラマー、カーマイン・アピスと組んだ時には驚きました。僕が最初にハード・ロックの洗礼を受けたのは「ヴァニラ・ファッジ」でしたから。
P.S.3 「お前なんか嫌い 甘い甘い声で」と始まる歌は何と言う歌だったのでしょうか。マキではなかったっけ?

self-comments
♪ 「お前なんか嫌い」で始まる曲はやはりカルメン・マキで、「思い出にサヨナラ」でした。岩谷時子作詞、いずみたく作曲。
♪ ずっと「東京はみなし児」の作詞も寺山さんだと思っていたのですが違いました。いまいずみあきらと言う方でした。新谷のり子の「フランシーヌの場合」を書いた作詞家で、両方とも作曲は郷伍郎。ちなみにいまいずみあきらは民主党の議員とは当然別人です。

by costellotone | 2007-05-07 13:07 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

レコード棚から-27

Talking Heads - Remain In Light (1980)
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 1960年代後半からニューヨークではルー・リード率いるヴェルヴェット・アンダーグラウンド、イギー・ポップ、ニューヨーク・ドールズ等が、他のカルチャーやメディアも取り込んでパンクと言う新しいカテゴリーを形成していたが、ロンドンで1975年にセックス・ピストルズが怒りののろしを上げると、世界中にパンクの炎が燃え上がった。しかしパンクは、パンクがパンクであるがゆえに、1970年後半には急速に収縮し始め、時代はポスト・パンクを模索する。
 デビッド・ボウイは1977年『ロウ』を発表、日本のイエロー・マジック・オーケストラも1978年テクノを確立し新たなる流れを目指す。そんなニューウェイブの中で、ニューヨークで学生の分際で1977年にデビューしたトーキング・ヘッズは、デヴィッド・バーンの尖がったセンスに引率されて、(もちろんブライアン・イーノに助けられ)メイン・ストリームに飛び出して行った。
 1980年10月、運よくニューヨークにいた僕は、発表されたばかりのアルバム『リメイン・イン・ライト』の最初のコンサート(Radio City Music Hall)に立ち会うことが出来た。先ず驚いたのは、このバンド4人だったはずだが何人ステージにいるのだ、と言うことだった。
 それまでトーキング・ヘッズのアルバムは全てリアル・タイムで聴いていたが、このアルバムは未だ聴いていないうちにライブにぶつかることになった。当然テクノっぽい音のが来ると予想してワクワクしながら待っていたら、鳴り出したのはアフリカン・ダンス・ビートと言うかファンクと言うか、とにかくテクノのように無機質的ではなく肉感的なうねりで、単調なフレーズの繰り返しのコラージュの上に、跳ね続けるパーカッションと熱を内包したバーンの歌声と奇怪な踊りが舞っていた。その横でそれまで見たこともない、禿げ上がった人がくねくねと歪むギターを弾いていて、これが凄かった。もちろん変態ギタリスト、この後でキング・クリムゾンに加入するエイドリアン・ブリューであった。
 この時のコンサートが僕の生涯ベスト・ライブになりました。後でこのアルバムも、以前バーンとイーノで製作した『My Life In The Bush Of Ghosts』も聴きましたが、あの時の目も眩む圧倒する音のうねりは体感出来ませんでした。もちろん直後の「新宿厚生年金」での来日コンサートも見に行きましたが。
 数年後映画として観た『ストップ・メイキング・センス』はそれなりにかっこよかったけれども、何か遠い日の舞台の記録としての懐かしさしか感じられませんでした。
 まあ、一生に一度の体験と言うことでしたね。
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P.S.1 上は「リメイン・イン・ライト」を熱く語るPOLYSICSハヤシ教授。
P.S.2 いとうせいこう先生の生涯ベスト・ライブは、先日の武道館でのBECKとblogに書かれていました。
by costellotone | 2007-04-22 15:42 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

レコード棚から-26

Yellow Magic Orchestra - Yellow Magic Orchestra (1978)

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 ジャーマン・プログレッシヴ・ロックの「クラフトワーク」が1974年に発表した『アウトバーン』がヒットし、続く『放射能 』、『ヨーロッパ特急 』、『人間解体』、『コンピューター・ワールド』で、旧ドイツ帝国のようにヨーロッパ大陸の隅々まで席巻して行った。全てコンピューターを駆使して製作された作品で、これがテクノ・ポップの発端であった。
 デヴィッド・ボウイはスーパー・スター=ジギーの仮面を脱ぎ捨てドイツへ向い、1977年、シンセサイザーを多用した「ロジャー」を発表。ブライアン・イーノと前衛電子音楽的ROCK、ベルリン3部作を作り上げる。
 ボウイと同じブリティッシュ・グラム・ロックと見られていた「ロキシー・ミュージック」も1974年『カントリー・ライフ』、1975年『サイレン』によってバンド・サウンドを確立し、「ニュー・ウェイブ」に方向転換、世界進出を視野に入れる。
 アメリカではポスト・パンクの位置づけで、先ずニューヨークで「トーキング・ヘッズ」が『サイコ・キラー'77 』でデビュー。オハイオではイーノのプロデュースで「ディーヴォ」が1978年『頽廃的美学論』を発表。ジョージアで1979年「THE B-52'S」が デビュー・アルバム『警告!B-52'S来襲』を発表した。
 このジャーマン・プログレとニュー・ウェイブの嵐は日本にも飛び火。元「はっぴいえんど」の細野晴臣、元「サディスティック・ミカ・バンド」の高橋幸宏、スタジオ・ミュージシャンの坂本龍一の3人が「イエロー・マジック・オーケストラ」を結成し、来るべき世界に挙手をした。
 細野の企みは「アジアの片隅、極東の都市TOKIOの現時点での民族音楽の世界ディスコティークへの発信」であったのだろう。(「テクノポリス=TOKIO」のコンセプトは次の「Solid State Survivor」で提示される。)当時のTOKIOで一番響いている音とは何か?勤勉で背の低いこの民族国家に何が鳴っているのか?答えは都市の地下室に置かれた何万台ものテーブル・タイプのコンピューター・ゲーム機がピコピコ・ピコピコと奏でる音楽だった。(「スペース・インベーダー」のヒットは1978年から始まった。)
 よってこのデビュー・アルバムはコンピューター・ゲームのピコピコからスタートし、やがてTOKIOのその時点での位置が「FIRECRACKER」によって明確に示される。しかしその全貌が現れるのは6曲目、テクノと言えばこの曲、「東風」(TONG POO)である。メンバーが操る冷たいシンセサイザーとコンピューターからゆったりと流れ出るメロディーはあまりにもノスタルジックだった。女性のロボ声をブリッジして「中国女」へ渡される。目指すはオリエンタル・ディスコ・ミュージックの欧米征服だったのか。何千、何億の日本人がテクノ・カットに人民服で「ブレードランナー」のような近未来都市で、北朝鮮のような集団体操を踊るのか。はたして、アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
 しかしテクノ坊やの蟻のような増殖に従い、YMOは悠久のオリエンタル・ムードを捨て去り、J-Popや歌謡曲、演歌も巻き込んで、より時代の最前線へ尖がって行く。けれども何時しか経済の巨大な欲望が、時代を引率していたはずのYMO自体をも呑み込んでしまっていた。多分その境目は坂本とキヨシローがKISSした瞬間。
 そしてあちこちで残骸が踊っていた。ウルトラヴォックス、ザ・キュアー、ジャパン、ニューオーダー、ジョイ・ディヴィジョン、デペッシュ・モード、バグルス、ヒューマン・リーグ、マガジン、P-MODEL、プラスチックス、ヒカシューetc.etc.
 踊り疲れたディスコの帰り、未だ遊び足らない女性たちが、出現し始めたカラオケ・ボックスへ向う。YMOを道に吐き捨てた、ブクブクと太った時代は次に小室哲哉を要求した。バブルへの突入であった。

 ニューヨークの街角に貼られたYMOのコンサートのポスター。(アルバム「増殖(マルティプライズ)」)
 Yellow Magic Orchestra World Tour'80 From TOKIO To TOKYO
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 第2回ワールド・ツアーのラスト、1980年11月14日、ニューヨーク、パラディアム・シアター。
 サポートメンバーは、矢野顕子、大村憲司、松武秀樹。
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 三角屋根の国立駅の前をランドセルを担いだ小学生が『ソリッド・ステート・サヴァイヴァー』を手に歩いているのを見かけてから4半世紀。三角屋根は見えないけれども、今も僕のパソコンでは時々Polysicsが喚いているのだ。トイス!
by costellotone | 2007-04-08 14:11 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

レコード棚から-25

Led Zeppelin - Presence (1976)

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 僕が中学時代に洋楽を聴くようになった頃(1966年前後)には「ロック」と言う概念が未だなく、プレスリーやチャック・ベリーなどのいわゆる「ロックンロール」しかなかった。高校に入る頃にクリームやジミヘン、ヴァニラ・ファッジが登場し「ニュー・ロック」、「アート・ロック」と言うレコード会社のネーミングにより「ロック」と言う分野が確立されて行った。そしてレッド・ツェッペリンやジェフ・ベックにより「ハード・ロック」と言う新しい言葉が登場した。
 サイモンとガーファンクル、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ、シカゴ、サンタナなど何故かCBSソニーのレコードばかり聴いていた僕も、友達から様々なレコードを借りて聴くようになった。(当時はレコードを貸し借りするのが友情の証みたいな雰囲気があった。)その中で出会ったのがZEPだった。
 初めて買ったZEPのレコードはシングル盤の「移民の歌」で、これは『Ⅲ』に収録されているのだが、確かシングルはモノラル録音だった気がする。2枚目に買ったのが、逆行するが、『Ⅱ』に収録されていた「胸いっぱいの愛を」だった。どちらもヘッドフォンでボリュームを上げて毎日のように聴いていた。けれども小遣いが足りないせいもあってか、LPを買わなかったのは、多分他に興味が移ってしまったからだろう。何せこの当時は聴きたい音楽が山のように、海のようにあったのだから。ZEPの他のハード・ロック、ディープ・パープルとかAC/DC、TOTOなどは全く聴かなかった。
 しばらく経って働くようになってから出会ったZEPのレコードがこの『プレゼンツ』だった。
 とにかく「アキレス最後の戦い」に驚愕した。尋常ではなかった。ROCKと言う音の塊だった。爆走する超重戦車か、銀河系を行く空飛ぶ空母か、深海か地底を疾走する鋼鉄の巨大なドリルのように感じた。ジョン・ボーナムのドラムが地獄の鬼のよう。彼こそが「アキレス」かと思う程に全てをなぎ倒して、ガンガンに叩きのめして突進して来る。「モビー・ディック」と言う曲が以前あったが、まさに死を前にのたり狂う巨鯨。ベースのジョン・ポール・ジョーンズが手綱を引くのだが、先行するボンゾのヘビィなスピードに引っ張られ、その微妙な手加減がファンキーなグルーブ感を作り出している。その上にジミー・ペイジのブルージーかつ黒魔術的なギターが唸りつつ、重い剃刀のように(まるで巨大な肉の塊を刻むように)リズムを刻む。この3者がハード・ロックの聖域を築き、ヴォーカルのロバート・プラントが城壁に陰影を彫刻する。
 ラストの「一人でお茶を」も大好きだった。
 この嵐のような、落雷のようなアルバムの後、ZEPもいろいろな不幸に見舞われ解散に向って行くことになる。このアルバムがZEPの最高傑作だと言う人もいるが、もしかしたらロック史上の最高傑作であるかも知れない。少なくとも僕にとってはそうだ。それ程の力が未だに宿っている。
 ジャケット・デザインはピンク・フロイド、ピーター・ガブリエル、松任谷由実のアルバムをやっているヒプノシス。金属製(?)の像は何でしょうね。
 ビークルの日高のTV番組『WORLD RIDE』にグレイプバインの田中がゲストで来た時に、日高が「ツェッペリンの偶数のアルバムが好きな人は性格が暗い。」と言っていた。この『プレゼンツ』は7枚目。
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P.S.  先日の「世界フィギアスケート」のエキシビションでカナダのペアが「胸いっぱいの愛を」で滑っていたので驚いた。誰が歌っているのか解らなかったが。
by costellotone | 2007-03-27 14:14 | 音楽 | Trackback | Comments(0)